京都旅行三日目 ②一乗寺という街 -平静と高揚-
さてさて、瑠璃光院を出て、八瀬駅という駅から一乗寺というところを目指します。
ラーメン屋や、古書店が立ち並ぶ地らしく、楽しみです、、!
八瀬駅、レトロで街並みにも合いますね。
列車もあまりみない形をしてて面白かったです🚃
一乗寺駅に着き、ラーメンを目指す
瑠璃光院に魅力されていたら、飲食を忘れていてはや夕方。
何かに魅力されると、飲食を忘れてしまうという自分の中でのあるある。
...
なんとこの日は15時まででした...
1秒くらい凹みましたが、2秒経つと気持ちは切り替わり、脳は他のお店へと向かっていました🚶🏻♂️
少し歩くと、何店舗か飲食店が並んでいました。
マンボウ食堂、何だか愉快な名前、
お店のデザインもおしゃれですね..
親子丼...美味しそう..
色々魅了されたので入店!
お店のぱっと見の外観って大切だなと実感しましたね(客視点なのに)
昼ごはんにしては圧倒的に遅く、夜にしては早い17時前、奇跡的に開いていました☺︎
自分が一人目の客なのかな、なんだか嬉しい
わーい
入る前からほぼ決まっていた、
自分の直観が親子丼という名を最初に認識した気がします
美味しそうすぎる、暴力ですね。
最初はラーメンを食べたかったのですが、実は心の奥底では親子丼を食べたかったんだ!
ということにしておきます
認定不協和の解消と言われることをしているという意識はありましたが、人間をやってるのでこういうときは認知的不協和の解消をして精神をクリアにします
さて、密かにすごく楽しみにしていた恵文社。
マンボウ食堂の店員さんも、よく行かれると言っていました。
この町での存在感は特に大きいと思うので、多分みんな知ってる感じかなと思いました。
全国から本好きが集まるそう。
(はい、そのうちの一人です。)
芸術から
展示
言語論、経済学、
シュルレアリスムまで、さまざまな種類がありました。
他にも、ファッション、数学、哲学、文学などそそられるテーマのものばかりでした。
また、最大の特徴は、出版社別ではなくて、独自の並びをしているということ。
岩波、講談社学術、新潮文庫、ちくまなど、出版社がバラバラで、一見関連性は見えなくても
どこかでリンクしている、不思議な並びでした。
それこそがこの書店のアイデンティティであり、その配列こそがセレンディピティを引き起こし、思わぬ本との出会いを生むんだなぁと思いました。
実際僕も多くの本に出会いました。
書店にいた時、いや、一乗寺という街の中にいた時、僕の心は相変わらず高揚していました
ただ、瑠璃光院を目にしたときの、全身にビリビリとした刺激を走らせるような高揚感とはまた質が違っていて、
どちらかというとここでは、落ち着きのある、静かに、それでいて小さく沸沸と湧き立つ高揚感がありました。
また来ます。必ず。
さて、お次は萩書房、恵文社から見ると線路の反対側です。
入り口には100円コーナー
もしかしたら面白いものがあるかも、、と高揚。
中は音楽の本や文学、西洋哲学(古典多め)がなどたくさんの本がありました。
僕は俵万智さんの本を買いました。
さて、チキンカツを食べに、近くの「あいかむ」へ。
え?40分くらい前にがっつり親子丼食べてなかったって?
いいんですいいんです。
でもさすがに普通サイズを注文。
(いや、普通の店の大盛り並みの米でしたけどけどね)
なんですかね、絶妙な塩梅で作られたソースがめちゃくちゃに美味しい。
はじめての味です。
思い出すだけでまた食べたくなりますね〜
これくらい暗くなるまで滞在しました(ざっくり指標)
少しずつ雨が強くなってくる..
帰路へ急げ!!
また明日
もののけ姫を見て。
- [:contents]
- もののけ姫との対峙
- 産業と経済と生命、そして理性
- 合理性と不可逆なア・プリオリ的自然
- 合理的な表象としてのエボシ
- 映画館で観るということ。
- ハートの法概念と内的視点と外的視点
- 神の脆弱性
- もののけ姫の音
- アシタカの正義感
- ゲマインシャフトとドラゴンクエスト
- 歴史背景に潜むジェンダーとトゲ
- 正義の構図、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的観点
もののけ姫との対峙
閑話休題、京都旅行を綴り切っていないのにも関わらずですが、「京都旅行」って文字があまりにも連続的に並ぶと圧力もあるし、今回は映画の感想を。
前日でも、事前予約すると安くなるみたいです。
この後少し人が入ってきましたが、最初は『あれ?さすがに人少なすぎないか...?」と思ってました
今はソーシャルディスタンスということで、必ず間にひと席あけないといけなくなってました。
少し寂しいかもしれませんが、大事ですよね予防意識。
「一生に一度は、映画館でジブリを。」のキャッチコピーで、6/26から『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』の4作品が映画館で観ることができるようになっています。
面白い試み。
ということで今回はもののけ姫を。
さて、もののけ姫というとジブリの名作ですが、自分はほとんどはじめて見ます。
本当に小さい頃、金曜ロードショーでチラ見した程度なので、新鮮な気持ちで作品に対峙できました。
(ネタバレが嫌な方は、閉じてくださいね)
何から話せばいいかな、これ。
産業と経済と生命、そして理性
じゃあ、生命と産業についてから。
自然の描写がジブリの一つの特徴なのかなとは思いますが、本作品からも生命の畏敬の念を感じました。
大きな理由は、本作品では、イノシシや狗など、人間以外も言語を持っているので、生物の気持ちが潜在→顕在化されました。
「もし森に、動物に、声があったらこんな感じなのかな」とイメージさせられるものでした。
僕たち人間は、産業の発達、資本主義社会の促進のために、森を切り開き都市を作ってきました、それは現実世界でもそうですよね。
そんな中、声もなく脅かされて行く森林や生命。
作品では、生命が、動物がそこに理性という独自の命を宿し、悲痛に怒り、叫ぶ。
私は、作品としての意思表明を感じました。
合理性と不可逆なア・プリオリ的自然
作品内では、人間(エボシたち)がシシガミの森を侵略し、破壊するという構成があります。エボシたちは、人間の発展のために無残にも森を壊していきます。しかし、作品のラストでシシガミの不思議な力で森が再生されるシーンがあります。
(以下セリフ↓)
甲六「すげぇ...シシ神は花さかじじいだったんだぁ...」
アシタカ「サン...サン。見てごらん」
サン「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない!! シシ神さまは死んでしまった」
ここですね。特にここのサンの一言、非常に示唆的です。何を示しているかというと、自然の不可逆性です。
確かに、人為的に壊されてしまった殺伐としたシシガミの森が、解き放たれしシシガミの力で再生され、再び緑生茂る森が出来上がったように見えます。
しかしサンの言う通り、もう以前の森は失われてしまったのです。
それでは何がどう失われたのか、私たちの住む現実世界で考えましょう。
(現実では、シシガミという不思議な力で再生することは出来ないので)微妙にニュアンスは異なると思いますが、これは現実にも置き換えられます。私たちの住む現実世界でもやはり自然は、そして生命は不可逆的だと思います。
人間は、人間のため、産業のため、資本主義のために自然を切り開き、都市を、住居を、文明を作りました。何も自然が嫌いだったわけではなく、合理性を考えたときにやむを得ず加速する資本主義の渦中でそうせざるを得なかっと言ったところでしょうか。
さあ、人間は一心不乱な合理性の名の下に、素晴らしき資本主義社会を作り上げました。
反面、ひたむきに合理性を追求した結果としていつのまにか自然を破壊してしまいました。
今はどうでしょうか?
「木を植えましょう」「自然を大切に」などと声を上げ、自らが破壊した自然を再び取り戻そうとしているのです。
よく耳にしますよね、この活動。
この活動それ自体は大変素晴らしいことだとおもいます。
しかし、個々ではなく人類という大きな主体で考えると、随分と手遅れなことをしているようにも捉えられます。そこにはもう自然は戻ってきません。サステナビリティにも限界はあります。
人によって植えられた苗木は、間違いなく生命の形をしています。個々ではそれは生命を増加させています。しかし全体図を見ると、綺麗に整列された街の木々、数式の用に、はたまたパズルのように並んでいる芝生たちはかつての自然と同義だと言うのは到底無理でしょう。
果たして昔のありのままに、無造作に、自然が真に自然として存在していたときは戻ってくるでしょうか?答えはもう明白ですね。
自然は総体的に見れば見るほど不可逆的であって人為には限界があります。自然を自然なまま残すことがいかに難しいことなのか考えさせられます。生命は確かに存在しているが、生命の内容は変遷してしまっている。
即物的なものは再生できるかもしれないが、観念の総体としての自然は2度と戻ってこない、サンはそのやり切れない思いを叫んでいるんだと思いました。
監督の宮崎駿はもちろんそれを意識していて、危惧だってしていたと思います。
森には、森を自然な森たらしめている不思議なオーラがあって、宮崎駿はそれが失われていくところに悲しさ、はたまた怒りすら覚えていたのではなかろうか。そんな気がします。
合理的な表象としてのエボシ
この近代の合理的人間のパラレルとして作品に投影されていると考えられるのがまさしく作品中のエボシです。彼女もまた、合理性をもとに人間のため、文明のために自然を拓いていきます。彼女も破壊神ではないので、ただの悪者ではないです。ただ、悪い人ではないという捉え方をしても、自然の目線に立つならば完全に敵です。
ここで考えさせられるのが、宮崎駿監督が、当初はこのエボシを殺す設定を構想していたそうです。しかし結果的には殺されませんでした。「死なすには行き過ぎで、でもただ生かすのも疑問だった」と残しています。
ここからも、生命を無慈悲に殺戮する合理的姿勢に対する、間接的な批判精神を感じます。資本主義は止まらない、それどころか加速する。わかっている。
ピュアな自然は減少していく、わかっている。
わかっているけど叫ばずにはいられない。そんな悲痛な魂の叫びが感じられた。
違っていたらすみません宮崎さん。
映画館で観るということ。
ハートの法概念と内的視点と外的視点
やっぱり映画館で観ると、深く奥行きのあるサウンドが、ジブリ特有の少しダークで不穏なざわめきを表現し、世界観に入りやすくしてくれるように感じました。
ハートの「法の概念」に内的視点と外的視点という考えがありますが、映画館だとその映画の世界、つまり内的視点に入りやすく、入ったら出にくくしてくれるのかなと感じました。
どういうことかというと、内的視点は読んで字の如く、映画の世界観の中に入ることです。
対して外的視点は「今、私は映画館で映画を観ている」という作品の外の客観的な視点です。「冷房が寒いなぁ」とか「あ、遅れて入ってきた人がいる」「この映画が終わったら晩ご飯はあそこで食べて、それから〜」みたいな視点が外的視点です。
家で見るより、内側に入り込めます。
とはいえ僕も人間ですし、ずっと作品の中にいられるわけではありません。
感情移入をすると言うよりは客観的に考察するタイプなので内⇄外を往来していました。
その往来が心地良かったりもします。
神の脆弱性
これは単純に思ったのですが、シシガミって不死身かと思いきやけっこう簡単に首を落とされてしまうんだなと思いました。
確かにエボシは人間の中ではかなり強いように見えます。しかし最も人智を超えているように見えるシシガミ、最期はけっこうあっけないなと思いました。
ただそのあと、首を切り落とされて閉ざされた後も独立的に動いていたので、やはりその超越的な生命力には恐ろしさを感じました。
あと首が入った入れ物が転げ落ちていくシーンがありましたが、その後綺麗に上を向いて出て行っていました。あの中で果たして首がどう動いていたのか、反発係数が気になります。
もののけ姫の音
また、もののけ姫のテーマ、どこか聴き覚えがあると思ったら、確か小学生のときのリコーダーとかで演奏しましたね。保育園だったかもしれない。
観ているとき、何度か
遠く離れた経験過去が、音符の一音一音まで明確に蘇ってきました。
「レレレミレ レファミラ ソドラソファ ミミミファミ」と
けっこう練習したと思う、、笑
アシタカの正義感
やっと主人公に触れるわけですが、いや〜、かっこいいですよねアシタカ。
強かな心身、迷いのないビジョン、人のためを想う純粋な正義感。
自らに多くを課し、使命感に満ちた強固な精神性を感じました。
(自らに多くを課す...オルテガ哲学の「少数者」を思い出しますね)
MBTI性格診断では彼はINFJと言われているみたいですね。
敵が近づくと鋭く察知するところなどからも、Ni(内向直観)が主機能なのはわかりやすいですが、TJかFJかは最初は見極められなかったですね。しかし人を想うFeも強いのでやはりINFJですね。
脱線しました。
ゲマインシャフトとドラゴンクエスト
エボシたちが作る「ムラ」的共同体のたたら場、昔ながらのゲマインシャフト的社会が形成されているなと思いました。ああいう、村全体が一つの家族にように繋がった様相は見ていて面白いなと思います。現代社会に生きていると余計です。
夜、エボシがアシタカに、秘密(?)の庭を見せるシーンなんかは、ドラクエの村みたいに見えて心躍りました。
共同体Aは共同体Aとして固有の世界を形成していて、B,C...があったとしても恐らくそれはまた別のゲマインシャフトが形成されている、と思いました。
あんまり関係ないけどまたドラクエやりたくなりました、村人と喋りたい。
歴史背景に潜むジェンダーとトゲ
タタラ場では、力強い女性像が描かれており、男性は萎縮し強弱の関係にあった。
ただ、もっと広い視点で見ると、侍は女性のことを「オンナ」と呼んでいたりすることもあった。なんか、女っていう言い方、少し男尊女卑的なトゲを感じるので個人的にはあんまり使いたくないなと思いました。
名前がわかったら名前で呼べばいいだろうけど、わからないにしても、あなたとか女性とか、もう少し品格のある言葉選びはあるのではないかと、僭越ながらも時代背景的な権威主義的性格を感じました。
正義の構図、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的観点
最後に、物語全体を通して構造的に思ったことを。
この作品、敵vs味方みたいな単純な対決じゃなくて、それぞれが、それぞれの正義の名の下にぶつかり合っているんです。
各視点に立てば、アシタカはもちろん、サンももののけも、エボシでさえも一つの正義の形をしています。
ここで難しくなってくるのが、正義の主観/客観問題です。
人はそれぞれの正義をもっていて、、どれもそれぞれの正しさを持っていて、その正しさを説明するそれぞれの論理を持っている。
それ故に客観的な絶対正義などなく、統一は不可能ともいえるだろう。
そのようにもどかしく、複雑に絡み合う正義と正義が衝突し合う物語。
といったところだろうか。
さて、みんな正しい。そうは言っても解決には繋がらない。
ここで一つ哲学を思い出す。ウィトゲンシュタイン 後期、哲学探究の、「言語ゲーム」思想だ。
言語ゲームは、人がある文化圏で無意識に形成している暗黙のルールのようなもの、それが領域を形作っているとした。
その世界にはそのルールがある。
そして言語ゲームは別の言語ゲームと、簡単に共存できないのである。
日本には日本の言語ゲーム、スペインにはスペインの言語ゲーム、会社には会社の言語ゲーム、〇〇小学校には〇〇小学校の言語ゲーム。大小はあれど、その無数言語ゲームが世界である。
さあ、何を言っているのか、ここでポイントなのは異なる言語ゲーム同士は簡単に分かり合えないということ。
もののけ姫にも、アシタカの言語ゲーム、村の言語ゲーム、サムライの言語ゲーム、シシガミの森の言語ゲームがある。共存できるだろうか?無理である。国際連盟が失敗したように。
印象的なセリフがある。
「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」
アシタカはそう残した。
簡単には自分が属していない言語ゲームは理解できない、その上で、一緒に住むのではなく、違うコミュニティであることを理解した上でそれでも共に生きようとする姿。
これこそ、グローバル化した現在の世界で目指すべき視座なのではなかろうかと。
さすがアシタカ、達観しています..
日本的な世界を描いた作品ですが、アナロジーすると我々の地球にとって大切なメッセージを示しているようにも捉えられました。
とまあ、2時間少しの映画を観たにしては長々と、えらく長々と話してしまいました
ありのままだけではなく、作品に込められた目に見えない想いや背景までも洞察させられるような、そんな深い作品でした。
久しぶりに深々と世界に入り込むことができた。
ありがとう。
京都旅行三日目 ①幽邃の秘境、瑠璃光院。
京都三日目です。
一度家に帰って、1日働いていたので一泊二日×2ですが、わかりにくいので三日目っていう表記にしました🚄
今日の目的は、一眼見たかった瑠璃光院。
京都駅からバスが出てます、バス乗り場が難しすぎましたね、、
現在のところは、C2乗り場というところから行けます!
最寄りのバス停に着きました
けっこう北部にきましたね
ポツポツと雨が降っています。
橋の上から青紅葉を撮りました。
小雨なので、川遊びをしていた人もいました。
真横に川が流れており、涼しいです
苔の壁
静かながら確かな生命感があります..
ひょこっ
入り口はこんな感じ、5〜10分くらいしか並んでいないので、多分空いている方だと思います。
待ち時間にすかさず撮影しました📸
これは入り口の門の裏側。
深みと奥行きのある緑です。
瑠璃光院の敷地に入っていながらも、建物はまだ入っていないので『どんなところなんだろうな』と期待が高まります...
入り口の少し手前
この日は不安定な天候で、このときも雨が降っていたんですが、時折、束の間の光さすタイミングで新緑の木漏れ日を撮影。
(服はshinyaのleukというものを着ていました。)
さあ、入り口を抜け、2階へ進むとそこには開放的で審美な和の空間が広がっていました。
肉眼で捉えたのは初めてのことです。
都会の喧騒を離れた、幽邃(ゆうすい)の地、瑠璃光院。
2階はメインスポットとも言えますし、
混み合っています。
柔らに水滴る、そして虫は小さく鳴く。
ほのかに香る和の建築の香り___
五感を芯から恍惚させる生命感と日本の様式美には思わず身震いを覚えるほど___
確かに写真でもその様相を確認できますが、
視覚以外の角度からも、私たちに静かに訴えかけてくるものを感じられる、そういう意味でもやはり訪れる価値が大いにあったなと。
硬筆の体験ができるため、せっかくなのでやってみました。
ここは1階です。
上から見下ろしていた庭園も、目線が変わると見え方も大きく変わりますね。
心なしか2階より涼しかったので暫く座って自然に浸りました。
遠くで囁く鳥の声、そして強弱を持った虫の声に、生命の儚さを感じます。
こちらはガラス越しの景色。
写真ではわからないけど、ダイレクトに自然を捉えるのとは微妙な違いを感じました。
僅かながら屈折して眼中に景色が入り込んでくる。
それもまたあはれ。
水々しい自然の匂い、そしてほのかに線香が醸し出す香りが入り混じり、そこに和の精神を感じます。
自然物とは思えないほど綺麗に整えられていて
かといって人工にも見えない生命感が感じられる。
これが庭師の業でしょうか、日本という国が宿す繊細な美意識を感じます。
造作性と無造作性、その絶妙な塩梅が、瑠璃光院を作り出しているようにも感じ取れました。
音もまた空間を形作っている。
しばらくの間、水の音を感じていました。
なぜこんなにも自然の水の音に心を動かされるのか、その場で少し考えてみました。
岩の形状、凹凸が、ランダムな川の流れ、偶発的な音を作り出していて、その音に一抹の心地よさを感じるのかもしれない。
同じサイクルで、絶え間なく音が連続している、それはある種の律動とも言えるかもしれない。
しかし、その音の成立自体に、人工ではなし得ない偶然性があって、そこに自然特有のものを感じる。
自然の力で形成された音楽としての律動、そのランダムに生み出された音こそが、空間全体の生命感を感じさせるのではなかろうか。
前期ウィトゲンシュタイン哲学でもこんなことを言っていただろうか、言葉が思考を超えることはない。それは確かなことである。
それ故に言語化しきれないもどかしさがある。
しかしそれでも言語を、語彙を捻出して、言語という形で思考を投影しようと葛藤する、そんな時間もまた一興。
五感を恍惚させる生命、和の精神が形成する静謐な様式美、
絶妙な距離感で自然と対峙し、心から味わうことのできる、幽邃の空間。
一歩足を踏み入れると、瑠璃光院は瑠璃光院としての確かな世界を作り出しているように思います。
ありがとう、瑠璃光院。
またいつか___
京都旅行二日目 ③ゆるやかなスローダウン
さあ、烏丸付近、街へ戻ってきました。
貴船が涼しすぎたので街は暑いだろうなと予想していましたが、意外と涼しげでした。
確か17時くらいかな
僕はあまり詳しくないのですが、どこかから何か祭りっぽいサウンドが聞こえてきました。
木屋町を通ったときに、見慣れない建物があったので、入ってみました、
調べると、7/21にオープンした複合施設「立誠ガーデン ヒューリック京都」
なんだか海外大学のキャンパスみたいですね
人工芝が気持ちよく、寝ている人も見受けられました。
小腹が空いていたということで、明石焼の名店へ。
薄水色の暖簾、清涼さと奥ゆかしさを感じます。
紅生姜?が入っていますね。
明石で食べたときには入ってなかったかもしれません
場所によって色々なスタイルがありますね〜
生姜が効いていてとても美味しかったです。
早々に完食しました。
今回の旅では、京都の古書店を回りたいなと思ってたので、ついに実現
この入り口の感じ、チェーン店にはなかなかないスタイルですよね。
ここ「大学堂」では、100円コーナー、300円くらいのコーナー、あとは色々ありました。
ジャンルはけっこうバラバラ
ラフな雰囲気のご年配の女性の方が営んでました
その後何店舗か巡りました。
ここは三密堂書店、いや、名前がタイムリーな感じがしますが、これは多分仏教の三密が起源なのかな?と思います。多分。
西洋、東洋バランス良く揃っていました。
哲学、社会科学が多めですね。
古代ギリシャから現代まで幅広いです。
この奥の岩波の整列を見ると心が昂っているのがわかります
びっしりですね
三密堂では、マルクス経済学の本と、絶版のマックスウェーバーの社会政策の本を買わせて頂きました。
綺麗な状態の本でした。
マジックアワーを少しすぎた頃でしょうか、辺りは暗いです。
真っ暗ではない、かと言って明るくはないなんとも言えない明暗です。
小雨が降ってました。
ホホホ座ですね
ブック、飲食、どちらも楽しめます。
どこか懐かしいような、温かいような空間でした。
左脳よりは右脳を刺激しそうな書籍のラインナップでした。
お腹が空いたので、
マックでカルビ?のバーガーのセットを注文、
京都でマック??
いいんですよたまには。
ジャンキーなフードもたまに食べたくなりますね、年に1〜2回くらい。
帰路へ。
疲労困憊しててそんなに覚えてないけど、少し寂しかったと思います。
ありがとう京都__
京都旅行 二日目 ② 納涼の貴船
この日のメインは、貴船(きぶね)っていう、北部の清涼なところへ行くことです。
さあ、なんやかんやで京都北部に行くのはかなり久しぶりのことです
しかも山に行くのはじめて ワクワク。
朝はホテルで少しお仕事を🖥
関係ないけどこの照明、雲のような、宇宙船のような、繭のようなフォルムをしていてかわいいです☁️
国際会館駅前というところから、バスが出ているみたいです。
本数は少ないように感じました。
貴船口というところまでは、とりあえずバス1本でいけます。
ここで乗り換えて少し進むと貴船神社があります!
ただ、そこまで長い距離でもないので、自然に触れようと思って、歩くことに🚶🏻♂️
いや、歩いてよかったこれは。
そう確信できるくらいに審美な自然が広がっていました。
標高が高く、真横に川が流れていることもあり、都市部と比べるとかなり清涼です。
溢れ出るマイナスイオンを感じます...
天然のセラピーですねこれは
ちなみに、貴船エリアにも京都の夏の風物詩、青紅葉が広がっています🍁
ん、、恋の道..?
字がかなり薄れているのが示唆的ですね...笑
後ろの苔岩がけっこう大きくて、雰囲気があったんですけど、考えすぎでしょうか、国家の「君が代」を彷彿とさせるものがありますね。
山ですし、制限なく青紅葉が広がっています。
圧倒されますね...
水が流れる音って、耳にするだけで癒しを感じますね😌
やはりこの深い緑の葉を見ると、夏にしかない特有の良さを感じます。
いいね、夏。
溢れていますね
フサッ..
「ほっこりしておくれやす」こんなん言われたらほっこりしていくしかないですね🍵
青紅葉と奥のライトが醸し出す雰囲気はジブリ作品みたいです。
どーん。 貴船神社の門です
けっこう大きい。
人はそう多くないみたいです。
京都の友達に聞けば、この人の少なさは異例らしいですね..
ピンチはチャンスですかね(?)
川の上に板を設(しつら)えて、その上で飲食をするというスタイルのお店が並んでいます。
そしてその上には提灯が。
稚拙な表現かもしれないですが、京都らしい景観ですね、、
昼食は、「ひろ文(ぶん)」にて。
流しそうめんをはじめとした和食を扱っているみたいです。
一応リンク貼っときます
↓
(https://hirobun.co.jp/sp/index.html
10分前後くらいでしょうか、待合のところで待ってる間に写真を撮りました
温かな提灯と川流れ、良き風景です。
動画を撮っていたので、ブレててアレですがスクショを貼っておきます。
正直、めちゃくちゃ楽しかったですね!笑
こうしたお店で流しそうめんをすること自体、はじめてだと思います
しょうが?のピンクの麺が流れてきたら、終了の合図みたいです。
さあ、神社へ
この連続を見ると、『けっこう登るんじゃないか..』とも思いましたが、、
意外とすぐでした
すんなり
7月ということで、たくさんの願いがぶら下げられていました🎋
全く知らない人の願いでも、何か心にくるものってありますよね
涼しげな貴船でしたが、最後にソフトクリームでさらにクールダウン🎐
美味しかったですね
夏なので溶けて溶けてちょっと大変でしたが笑
ちなみに、父に貴船ビールを買いました
(帰宅後の写真)
店員さん曰く特有の味がするといっていましたが、
酵素?の沈殿、それと綺麗な水に特徴があるなと個人的には思いました。
少し分けてもらいましたが、澄んでて美味しかったです🍻
貴船、とても心地良かったです。
またいつか。
京都旅行 二日目 ①朝の散歩、静寂と生命。
今回は衝動で外へと飛び出した話。
HSP(ようはやたらと繊細な人)ということもあり、なかなか眠れず、もう今日は無理かなと思っていたそのとき、、
なんか、「早朝の京都ってよさそう」っていう、ただそれだけのシンプルな衝動が走り、サッと着替えてホテルを飛び出しました
ちなみにホテルのロビーはこんな感じで、静かでシンプル。
良い空間です。
5時くらいだったかな。
辺りは薄明るいですね。
街が動き出そうとしているような、その準備をしているような、クラウチングスタートの構えをしているような、そんな気がします。
夜型の僕には中々レアな光景です。
暫く歩くと、京都御苑に辿り着きました。
こんなところにあったんですね。
いや、むしろ偶然辿り着いてすみません京都御苑さん。
(御苑:天皇が所有する庭園)
木々生茂る入り口。
好きですね。
門をくぐると、街中とは思えないほどに広大な土地が広がっていました。
朝、活動をスタートするように鳥の声が聞こえてきます。
初夏の薫風とはよく言ったもので、夏夜の静寂とはまた違った、鳥の声混じる生命感のある静けさを感じました。
(薫風:初夏、新緑の間を吹いてくる快い風。)
雲みたいな木を見つけました
濃い影が雰囲気を増大させてますね。
なんか、敵キャラに出てきそう、空から攻撃をしかけてくるタイプのやつですね、多分
さあ、足を進めていくと、青紅葉が姿を現しました。
京都は青紅葉が綺麗だというのは聞いていたのですが、まさかここにあるとは思っていなかったので、驚きと喜びがmixed!でしたね。
けっこう大きく成長しているものもありました。
モクモク
秋の紅葉とはまた違った、新緑の清らかな生命を感じます。
明るみのある青紅葉が、力強い朝の光を投影していて、思わず心に静かな情動が湧き立ちました。
朝露滴る青紅葉を見たとき、感動でじんわりと身体が震えたんですけど、ほぼ自動的にスピノザの情動と身体についての観念を思い出した。
これは例えば、
「悲しいから泣く」のではなく
「泣くから悲しむことが可能」とすることです。これは鋭い。
確かに「綺麗」と思う前に、身体はほぼ自動的に震えてた気がする。
木陰の紅葉もいいなぁと
地面に枝垂れているとなんか距離的に親近感を感じますね笑
自然を綺麗に写せるレンズなんかも欲しいなと。
夏の青紅葉には自然のこれ以上なきまでの審美性を感じます。
大変強く魅了され、いつのまにか小一時間滞在していました。
すっかり空も明るくなりましたね
京都を京都たらしめているのは、なんなのかって考えたんですけど、
部分というよりは、総体として京都という世界が構築されているからなんですかね。
過去に住んでいたわけでもないのに、訪れるたびにどこか懐かしさと少し寂しさを感じます。
極めて日本的なわびさびと、どこか懐古的な生命感を持つ、それ自体が一つの生物のような町だなぁとしみじみ。
いまは普通に人が少ないですが、朝はとくに少ないですね。
限りになく無音に漸近している空間が広がっています...
いい天気。
パワーをもらえますね〜
あんまり写真には写っていませんが、走っている人やウォーキングしている人もたくさんいました。
近くにこんなところがあったらいいですよねほんと。
僕はというと、そこそこの距離を歩いたので、しばらく橋の下で休憩してました。
ん〜、橋の下ってなんか好きです。
良い風が吹いていましたね〜。
朝の散歩編はこの辺で🚶🏻♂️
京都旅行 一日目 ② 夏夜の京都
今回は一日目、夜です。
扉を開けると、そこは暗闇だった。
(↑川端康成 「雪国」のトンネルを抜けると、そこは雪国だった。風)
しばらくホテルで用事をしていると、いつしか京の町は夜になっていました。
20時前くらいの様子ですね。
昼は人が少ないながらも、やはりどこか高揚感を擽(くすぐ)られるような感じがしましたが、一方夜は少し物寂しげな無音の世界が広がっていました。
一人で歩いているときは基本イヤホンで音楽を聴いていることが多いのですが、街の音を聴こうと思い、途中で外しました。
もちろん完全な無音などはないので、静寂の中にも侘しさを含有したかすかな生活音や、少ないながらも人々の足音などが耳に入ってきて、少し繊細な寂しさを感じました。
京都はその土地柄か一直線の道が多く、どこまでも人がいないその直線が続いているところからも、普段の京都とはまた違った、無が果てしなく続くような、そんな静寂が見受けられます。
というのも、従来通りであれば今は祇園祭が盛り上がりを見せているような時期でもあるので、例年と対比するとよりその静けさを感じ取ることができました。
と、いいつつ、祇園祭に行ったことがあるかと言うとうろ覚えですね笑
(提灯だけはありました。)
そのまま、寺町付近へと
お腹はそれなりに空いていました
この辺りを歩いたことがある人はわかるかもしれないですが、極度に人が少ないです...
年末に感じる特有の寂しさにも似た思いになりしたね、、
そして蕎麦屋さんへ
明治から続く田毎というところへお邪魔しました。
天ぷらそば定食にしました。
うん、見るからに美味しそう。
(編集が面倒で、少し暗いままの写真ですね笑)
自分の「いただきます」の方が少し右に歪んでいるのは、ここで初めて知ることになります笑
(いきなりですが、この日の半袖シャツはカミエルフォートヘンスの20ssのものです。
ゆるっとしてますね笑)
あ、エビがプリプリで美味しかったです🦐
全体的に優しい味でした。
いいね、京都のほのかな味付けは。
その後は辺りを少し散歩しました。
諸所の街灯が京都らしさを醸し出しています..
↓さあ、ここは最近openした新風館という施設です。
入り口からして、独創的な雰囲気がありますね
好きですこのデザイン。
「新風館」っていう名前からも少し感じ取れる気もしますが、ここ京都にしてはけっこうモダンな雰囲気のある施設ですね。
いわば「和風な表参道」そんな雰囲気でした。
新しいながらも、けっこう木造な様式もいい塩梅に取り入れられていて、そのあたりに「和」スタイルを感じます。
中身はbeams、1ldkなどのセレクトショップや、cafe kitsuneなど、都内なんかでも人気のある洒落たショップが立ち並びます。
(↑なんか、マインクラフトとかに出てきそうなオブジェですね。
これがリアル世界に物理的に存在していることに、僕の目は「不思議!」って言ってます笑)
(カフェキツネ、もちろん閉まってた)
(通路。写真で見るとなんかパリコレみたいでカッコいいですね笑
tops:camiel fortgens for strips strore
pants:vintage
shoes:orphic
なんちゃって笑)
夜の新風館も、一歩足を踏み入れると現代的かつ和風な世界が広がっていて面白かったです。
色々と充実した一日でした。
寝不足ということもあり体が眠いサインを出しているので今日はこの辺で。
次回
京都旅行 二日目 ①朝の散歩、静寂と生命。 - 追憶とパルプンテ
へ続く