追憶とパルプンテ

追憶と、これからと

もののけ姫を見て。

もののけ姫との対峙

閑話休題、京都旅行を綴り切っていないのにも関わらずですが、「京都旅行」って文字があまりにも連続的に並ぶと圧力もあるし、今回は映画の感想を。

 

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前日でも、事前予約すると安くなるみたいです。


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この後少し人が入ってきましたが、最初は『あれ?さすがに人少なすぎないか...?」と思ってました

 

今はソーシャルディスタンスということで、必ず間にひと席あけないといけなくなってました。

少し寂しいかもしれませんが、大事ですよね予防意識。

 

 

「一生に一度は、映画館でジブリを。」のキャッチコピーで、6/26から『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』の4作品が映画館で観ることができるようになっています。

面白い試み。

ということで今回はもののけ姫を。

 

 

さて、もののけ姫というとジブリの名作ですが、自分はほとんどはじめて見ます。

本当に小さい頃、金曜ロードショーでチラ見した程度なので、新鮮な気持ちで作品に対峙できました。

 

(ネタバレが嫌な方は、閉じてくださいね)

 

何から話せばいいかな、これ。

 

産業と経済と生命、そして理性

じゃあ、生命と産業についてから。

自然の描写がジブリの一つの特徴なのかなとは思いますが、本作品からも生命の畏敬の念を感じました。

大きな理由は、本作品では、イノシシや狗など、人間以外も言語を持っているので、生物の気持ちが潜在→顕在化されました。

「もし森に、動物に、声があったらこんな感じなのかな」とイメージさせられるものでした。

 

 

僕たち人間は、産業の発達、資本主義社会の促進のために、森を切り開き都市を作ってきました、それは現実世界でもそうですよね。

そんな中、声もなく脅かされて行く森林や生命。

作品では、生命が、動物がそこに理性という独自の命を宿し、悲痛に怒り、叫ぶ。

私は、作品としての意思表明を感じました。

 

合理性と不可逆なア・プリオリ的自然

作品内では、人間(エボシたち)がシシガミの森を侵略し、破壊するという構成があります。エボシたちは、人間の発展のために無残にも森を壊していきます。しかし、作品のラストでシシガミの不思議な力で森が再生されるシーンがあります。

(以下セリフ↓)


甲六「すげぇ...シシ神は花さかじじいだったんだぁ...」

アシタカ「サン...サン。見てごらん」

サン「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない!! シシ神さまは死んでしまった」


ここですね。特にここのサンの一言、非常に示唆的です。何を示しているかというと、自然の不可逆性です。

確かに、人為的に壊されてしまった殺伐としたシシガミの森が、解き放たれしシシガミの力で再生され、再び緑生茂る森が出来上がったように見えます。

しかしサンの言う通り、もう以前の森は失われてしまったのです。

 


それでは何がどう失われたのか、私たちの住む現実世界で考えましょう。

(現実では、シシガミという不思議な力で再生することは出来ないので)微妙にニュアンスは異なると思いますが、これは現実にも置き換えられます。私たちの住む現実世界でもやはり自然は、そして生命は不可逆的だと思います。

 

 

人間は、人間のため、産業のため、資本主義のために自然を切り開き、都市を、住居を、文明を作りました。何も自然が嫌いだったわけではなく、合理性を考えたときにやむを得ず加速する資本主義の渦中でそうせざるを得なかっと言ったところでしょうか。


さあ、人間は一心不乱な合理性の名の下に、素晴らしき資本主義社会を作り上げました。

反面、ひたむきに合理性を追求した結果としていつのまにか自然を破壊してしまいました。

 

 

今はどうでしょうか?

「木を植えましょう」「自然を大切に」などと声を上げ、自らが破壊した自然を再び取り戻そうとしているのです。

よく耳にしますよね、この活動。

 

この活動それ自体は大変素晴らしいことだとおもいます。

しかし、個々ではなく人類という大きな主体で考えると、随分と手遅れなことをしているようにも捉えられます。そこにはもう自然は戻ってきません。サステナビリティにも限界はあります。

 

 

人によって植えられた苗木は、間違いなく生命の形をしています。個々ではそれは生命を増加させています。しかし全体図を見ると、綺麗に整列された街の木々、数式の用に、はたまたパズルのように並んでいる芝生たちはかつての自然と同義だと言うのは到底無理でしょう。

果たして昔のありのままに、無造作に、自然が真に自然として存在していたときは戻ってくるでしょうか?答えはもう明白ですね。

 

 

自然は総体的に見れば見るほど不可逆的であって人為には限界があります。自然を自然なまま残すことがいかに難しいことなのか考えさせられます。生命は確かに存在しているが、生命の内容は変遷してしまっている。

 

即物的なものは再生できるかもしれないが、観念の総体としての自然は2度と戻ってこない、サンはそのやり切れない思いを叫んでいるんだと思いました。

 

 

 

監督の宮崎駿はもちろんそれを意識していて、危惧だってしていたと思います。

森には、森を自然な森たらしめている不思議なオーラがあって、宮崎駿はそれが失われていくところに悲しさ、はたまた怒りすら覚えていたのではなかろうか。そんな気がします。

 

合理的な表象としてのエボシ

この近代の合理的人間のパラレルとして作品に投影されていると考えられるのがまさしく作品中のエボシです。彼女もまた、合理性をもとに人間のため、文明のために自然を拓いていきます。彼女も破壊神ではないので、ただの悪者ではないです。ただ、悪い人ではないという捉え方をしても、自然の目線に立つならば完全に敵です。

ここで考えさせられるのが、宮崎駿監督が、当初はこのエボシを殺す設定を構想していたそうです。しかし結果的には殺されませんでした。「死なすには行き過ぎで、でもただ生かすのも疑問だった」と残しています。

ここからも、生命を無慈悲に殺戮する合理的姿勢に対する、間接的な批判精神を感じます。資本主義は止まらない、それどころか加速する。わかっている。

ピュアな自然は減少していく、わかっている。

わかっているけど叫ばずにはいられない。そんな悲痛な魂の叫びが感じられた。

違っていたらすみません宮崎さん。

 

 

 

映画館で観るということ。
ハートの法概念と内的視点と外的視点

やっぱり映画館で観ると、深く奥行きのあるサウンドが、ジブリ特有の少しダークで不穏なざわめきを表現し、世界観に入りやすくしてくれるように感じました。

 


ハートの「法の概念」に内的視点と外的視点という考えがありますが、映画館だとその映画の世界、つまり内的視点に入りやすく、入ったら出にくくしてくれるのかなと感じました。

 


どういうことかというと、内的視点は読んで字の如く、映画の世界観の中に入ることです。

 


対して外的視点は「今、私は映画館で映画を観ている」という作品の外の客観的な視点です。「冷房が寒いなぁ」とか「あ、遅れて入ってきた人がいる」「この映画が終わったら晩ご飯はあそこで食べて、それから〜」みたいな視点が外的視点です。

家で見るより、内側に入り込めます。

 


とはいえ僕も人間ですし、ずっと作品の中にいられるわけではありません。

感情移入をすると言うよりは客観的に考察するタイプなので内⇄外を往来していました。

その往来が心地良かったりもします。

 


神の脆弱性

これは単純に思ったのですが、シシガミって不死身かと思いきやけっこう簡単に首を落とされてしまうんだなと思いました。

確かにエボシは人間の中ではかなり強いように見えます。しかし最も人智を超えているように見えるシシガミ、最期はけっこうあっけないなと思いました。

 


ただそのあと、首を切り落とされて閉ざされた後も独立的に動いていたので、やはりその超越的な生命力には恐ろしさを感じました。

あと首が入った入れ物が転げ落ちていくシーンがありましたが、その後綺麗に上を向いて出て行っていました。あの中で果たして首がどう動いていたのか、反発係数が気になります。

 

もののけ姫の音

また、もののけ姫のテーマ、どこか聴き覚えがあると思ったら、確か小学生のときのリコーダーとかで演奏しましたね。保育園だったかもしれない。

観ているとき、何度か

遠く離れた経験過去が、音符の一音一音まで明確に蘇ってきました。

「レレレミレ レファミラ ソドラソファ ミミミファミ」と

 

けっこう練習したと思う、、笑

 


アシタカの正義感

やっと主人公に触れるわけですが、いや〜、かっこいいですよねアシタカ。

強かな心身、迷いのないビジョン、人のためを想う純粋な正義感。

自らに多くを課し、使命感に満ちた強固な精神性を感じました。

 


(自らに多くを課す...オルテガ哲学の「少数者」を思い出しますね)

 


MBTI性格診断では彼はINFJと言われているみたいですね。

敵が近づくと鋭く察知するところなどからも、Ni(内向直観)が主機能なのはわかりやすいですが、TJかFJかは最初は見極められなかったですね。しかし人を想うFeも強いのでやはりINFJですね。

脱線しました。

 


ゲマインシャフトドラゴンクエスト

エボシたちが作る「ムラ」的共同体のたたら場、昔ながらのゲマインシャフト的社会が形成されているなと思いました。ああいう、村全体が一つの家族にように繋がった様相は見ていて面白いなと思います。現代社会に生きていると余計です。

夜、エボシがアシタカに、秘密(?)の庭を見せるシーンなんかは、ドラクエの村みたいに見えて心躍りました。

共同体Aは共同体Aとして固有の世界を形成していて、B,C...があったとしても恐らくそれはまた別のゲマインシャフトが形成されている、と思いました。

あんまり関係ないけどまたドラクエやりたくなりました、村人と喋りたい。

 


歴史背景に潜むジェンダーとトゲ

タタラ場では、力強い女性像が描かれており、男性は萎縮し強弱の関係にあった。

ただ、もっと広い視点で見ると、侍は女性のことを「オンナ」と呼んでいたりすることもあった。なんか、女っていう言い方、少し男尊女卑的なトゲを感じるので個人的にはあんまり使いたくないなと思いました。

名前がわかったら名前で呼べばいいだろうけど、わからないにしても、あなたとか女性とか、もう少し品格のある言葉選びはあるのではないかと、僭越ながらも時代背景的な権威主義的性格を感じました。

 

正義の構図、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム的観点

最後に、物語全体を通して構造的に思ったことを。

この作品、敵vs味方みたいな単純な対決じゃなくて、それぞれが、それぞれの正義の名の下にぶつかり合っているんです。

各視点に立てば、アシタカはもちろん、サンももののけも、エボシでさえも一つの正義の形をしています。

ここで難しくなってくるのが、正義の主観/客観問題です。

 

人はそれぞれの正義をもっていて、、どれもそれぞれの正しさを持っていて、その正しさを説明するそれぞれの論理を持っている。

それ故に客観的な絶対正義などなく、統一は不可能ともいえるだろう。
そのようにもどかしく、複雑に絡み合う正義と正義が衝突し合う物語。

 

といったところだろうか。

 

さて、みんな正しい。そうは言っても解決には繋がらない。

ここで一つ哲学を思い出す。ウィトゲンシュタイン  後期、哲学探究の、「言語ゲーム」思想だ。

言語ゲームは、人がある文化圏で無意識に形成している暗黙のルールのようなもの、それが領域を形作っているとした。

その世界にはそのルールがある。

そして言語ゲームは別の言語ゲームと、簡単に共存できないのである。

日本には日本の言語ゲーム、スペインにはスペインの言語ゲーム、会社には会社の言語ゲーム、〇〇小学校には〇〇小学校の言語ゲーム。大小はあれど、その無数言語ゲームが世界である。

 

さあ、何を言っているのか、ここでポイントなのは異なる言語ゲーム同士は簡単に分かり合えないということ。

もののけ姫にも、アシタカの言語ゲーム、村の言語ゲーム、サムライの言語ゲーム、シシガミの森の言語ゲームがある。共存できるだろうか?無理である。国際連盟が失敗したように。

 

印象的なセリフがある。

「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」

アシタカはそう残した。

簡単には自分が属していない言語ゲームは理解できない、その上で、一緒に住むのではなく、違うコミュニティであることを理解した上でそれでも共に生きようとする姿。

これこそ、グローバル化した現在の世界で目指すべき視座なのではなかろうかと。

さすがアシタカ、達観しています..

 

日本的な世界を描いた作品ですが、アナロジーすると我々の地球にとって大切なメッセージを示しているようにも捉えられました。

 

 

 

 

 

 

 

とまあ、2時間少しの映画を観たにしては長々と、えらく長々と話してしまいました

ありのままだけではなく、作品に込められた目に見えない想いや背景までも洞察させられるような、そんな深い作品でした。

久しぶりに深々と世界に入り込むことができた。

ありがとう。