京都四日目 ②帰路、灯火に似た空と焼灼される心
さあ、帰路へ
一つ前の記事で、旅を綴るものは終わりにしようと予定していました。
でも、僕は今、この文章を書いています。
重厚に重なり合う雲、不穏さもありつつ、僕はこのモクモクとした雲は嫌いじゃないです。
さあ、旅の写真でも見返していくか〜と思っていると、
右を見ると、まあなんと素敵な夕日が顔を出しました。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの、ピークアンドエンドの法則とはよく言ったものです。
簡単に説明すると「人間は、ピークの思い出と、終わり方、最も強く記憶するのはその2箇所だ。」ということを証明した人です。
「まさしくこの旅の実質的エンドはここだ..!」と思っていました。
少しセンチメンタルで、それでいて静かな心地良さを感じるような、そんな旅のピリオドでした。
焼けるような空。
写真では伝わらないですよね..
すみません、わかってはいるんですけど..
しかし文章は残します。
右側は黄金に光り輝くような夕日でした、
撮影できませんでしたが、左側はまるで紫陽花のような、どこか泣いているような薄紫色の空でした。
ここで即座にRADWIMPSの「俺色スカイ」という曲を思い出しました。
特にこのフレーズ
「この空は今日も俺を見つめてた 言葉よりデカイ何かで俺を慰めてた
悲しい人が多ければ多いほど その日は美しい夕焼けが燃えていた」
少し哲学的な話をしますが、空の様相を完全に描写することはできません、言葉が空の状態を完全に語ることはできない。
言葉の担当する領域を凌駕して、自然の、空の審美さがあるのです。
そう考えると我々の使う言葉もちっぽけに思えてきます。
そして「悲しい人が多ければ多いほど、その日は美しい夕焼けが燃えていた」と。
なんともセンチメンタルな描写。
悲しい人が多い→美しい夕焼け
客観的に考えるとここは繋がらない因果です。
しかし人間は因果なきところにも因果を作り出そうとする生き物、その際たる例がアーティストなのではなかろうか。
科学ではそれはヒューリスティックスと批判されますが、この曲の中では野田くんが創り出した因果がやりきれない人間のもの寂しさを描いていて、結果として多くの人の心を動かしています。
良き方に転ぶことだってたくさんある。そう思わせてくれる。
さて、
通路を挟んで反対側の女性も、この空を撮影していた。
同じ動作をしていた僕はどうしても一瞥してしまった。
といっても、その行為に凄く心が動いたという感じなので、顔などの身体的情報は思い出せない。
しかし感性の一要素として、一つでも同等のものを持ち、それが同時に外側に現れているとすると、この上なく希有で素晴らしいことではなかろうか。
その方はその後も何度も夕暮れの空を見ていた。
観察するように、憂いと躍動と希求が入り混じるように。
知らない街にも、至極当たり前のように家が立ち並ぶ
日本では、いたって普通の住宅たち。
でも、その一つ一つにはもちろん人が住んでいて、一人一人の人生があると思うと、
なんだかそれが奇跡のことのような、実は天文学的方程式で生み出された解としての結果のような、小さい感動を覚えます。
普段行かない街を通過すると、いつもそんなことを考えます。
反対側の女性は、まだ夕日を見上げています__
ダニエルカーネマンの言葉を借りれば、
ピークもエンドも充実した、最高の旅でした。
やはり、予期せぬところで生まれる感動というのも旅の醍醐味ですね。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、外出はやはり難しいものとなっています。
旅をするときは自分の予防はもちろん、周りのことも考える、
その辺は大切にしながら、無理なく旅をできたらなと。
ありがとう京都、楽しかった。